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第188回 (平成29年9月号) SR神奈川会

「入社日から来ていない?!」
「履歴書には健康状態良好とあった、詐欺だ!」

SRネット神奈川(会長:望月 昭男)

A協同組合への相談

F社は、電子部品の製造を行っています。現在は事務や営業を行う都内の本社と、郊外に工場を持ち、細かいメーカーからの要求に応える体制を整え、業務拡大を図っています。
Yさんは、工場勤務として採用されました。採用から1カ月ほどたったある日、本人から傷病手当金申請書が本社に届きました。総務部長が工場長に確認すると、なんと入社日から1日も出勤していませんでした。「どういうことなんだ?」首をかしげる社長に、工場長は「入社日の朝に電話が入り、今から入院するので出勤できないと言われました」「なんですぐ報告を入れないんだ! とにかくYさんに連絡を取るように」ところが連絡をしても「まだ体調が悪い、医師から出勤を止められている」と診断書を出し、出勤してきません。そしてついには退職届が送られてきました。社長は履歴書や面接記録を総務部長に提出するように指示しました。「健康状態は良好とあるじゃないか」「はい、本人も特に通院歴はないと面接でも言っていましたし、本人が出してきた健康診断結果も問題ありませんでしたが、その後の聞き取りの結果うつ病の既往症はあったようです」実際に体については健康であるという診断結果でしたが、Yさんの休業理由は「うつ病」でした。「うつ病については何も申告がなかったんだな?」「はい…」「これじゃまるで詐欺だ! 傷病手当金を目的にうちに入社したようなものじゃないか。採用自体を取消しにしてくれ! 傷病手当金なんて支払う必要もない! そうじゃなければ懲戒解雇だ!」すでに入社の各種保険加入手続きも完了し、傷病手当金申請にも会社証明印を捺印して提出してしまっていた総務部長は困ってしまいました。相談を受けた事務局担当者は専門的な相談内容について連携している地元のSRアップ21を紹介することにしました。

相談事業所 組合員企業F社の概要

創業
1978年

社員数
業種

業種
製造業

経営者像

経営者像技術者2~3人の町工場から工場を抱えるまで大きくした3代目社長。
自身も日々新しい技術を試してみる、現場からも信頼の厚い経営者。


トラブル発生の背景

1日も出勤せず退職届を提出してきた社員を、遡って入社取消しとしたいと社長は考えています。

もともと健康状態が良好という申告自体が詐欺であると思ってのことです。

ポイント

1日も出勤せず退職した社員を遡って入社取消しとできるでしょうか? 今回は特に健康状態に問題ないということを信じて採用を行ったにも関わらず、既往症が元で出勤しなかったことを詐欺だと受け止めているようです。また、今後採用時にはどのように本人の健康状態を確認すればよいのか、今後の注意点などF社の社長へよきアドバイスをお願いします。

  • 弁護士からのアドバイス
  • 社労士からのアドバイス
  • 税理士からのアドバイス

弁護士からのアドバイス(執筆:紺野 晃男)

まず、Yさんを遡って入社取消しとできるかですが、F社とYさんとの間には労働契約が成立しているところ、採用時に健康状態は良好であると申告したYさんに欺罔行為があるとして、労働契約を詐欺により取り消すこと(民法第96条)が考えられます。この点について、Yさんはうつ病の既往症はあるものの、採用時にうつ病を再発し治療中であったかは定かではないようですから、採用時にYさんが健康状態について欺罔行為に及んだとまではいえないものと考えられます。また、Yさんが採用時にうつ病を再発していたといえないのであれば、 うつ病の既往症があることを申告しなかった点についても、欺罔行為に及んだとまではいえないものと考えられます。なお、労働契約が錯誤により無効(民法第95条)とできないかについても、同様に無効とすることはできないものと考えられます。
このように、入社を取り消すことはできないとしても、Yさんが採用時にうつ病の既往症を申告しなかったという点をもって、懲戒解雇することはできるでしょうか。裁判例では、重要な経歴の詐称を懲戒事由とする懲戒処分も肯定されており、炭研精工事件(最判平成3年9月19日)では、学歴詐称及び禁錮以上の刑に処せられたことの不申告を理由とした懲戒解雇が有効であると判断されています。もっとも、てんかん発作の既往症を秘匿した事案について、てんかん発作が軽度であって、その発作も治療等によりほとんど消失しているため、職務遂行能力の判断に影響を及ぼすおそれが少ないとして解雇(分限免職)は無効であると判断した裁判例があります(福島市職員事件・仙台高決昭和55年12月8日)。本件では、実際にうつ病が再発していること、医師から出勤を止められていることからみて、Yさんのうつ病の既往症が軽度であったとはいえないものと考えられます。

他方、採用面接時 にはうつ病が直ちに窺える様子ではなかったものと思われますから、Yさんのうつ病の既往症が極めて重度である、または、採用時にうつ病再発の可能性が高かったとまでは必ずしもいえない可能性があります。すなわち、Yさんの過去に発症したうつ病の程度や治癒の時期、再発したうつ病の程度、さらに工場勤務の具体的な勤務内容などの事情を踏まえ、Yさんが申告しなかったうつ病の既往症が、その職務遂行能力の判断に重要な影響を及ぼすものといえるかによって、懲戒解雇ができるかの結論が変わってくるものと考えられます。Yさんが過去に発症したうつ病の症状が重く、治癒したばかりであって、再発したうつ病により長期にわたり出勤ができないという場合には、懲戒解雇が有効と判断される可能性が相当程度認められます。なお、前提として、本件で懲戒解雇を行うには、重要な経歴の詐称は懲戒解雇事由である旨を就業規則に定めておく必要があります。
こうした問題への対応として、採用時にうつ病に関し医師の診察を受けさせることが考えられるところですが、他方で個人のプライバシーが鋭く対立する問題といえます。

裁判例では、採用時のB型肝炎ウイルス検査やHIV検査は必要性がなく認められないと判断されています。うつ病に関しても、やはり個人のプライバシー保護からみて、慎重な対応が求められます。具体的には、採用面接においてうつ病の既往症または現在の症状の有無について質問することができるにとどまり、基本的に、本人の同意なく医師の診察を受けさせることまではできないものと考えられます。

社会保険労務士からのアドバイス(執筆:望月 昭男)

1 入社日から出勤しない社員の社会保険等の手続きの取消しについて
社会保険法上の被保険者の定義は、「適用事業所(雇用保険法上「適用事業」)に使用される者」(厚生年金は70歳未満)とされています。日本年金機構の通達では、「事実上の使用関係があれば足り、事業主との間の法律上の雇用関係の存否は、使用関係を認定する参考となるに過ぎない。したがって、単に名目的な雇用関係があっても、事実上の使用関係がない場合は使用される者とはならないと解されており、就労の実態や報酬の有無等を確認し、事実上の使用関係が認められなければ、資格取得をする必要はないとすることが妥当であろう。」(日本年金機構・疑義照会回答〔厚生年金保険適用・被保険者資格取得届・24〕)とされ、また、雇用保険に関する厚労省の通達では「雇用保険法における「労働者」とは事業主に雇用され、事業主から支給される賃金によって生活している者をいう。「雇用関係」とは民法第623条の規定による雇用関係のみでなく、労働者が事業主の支配を受けて、その規律の下に労働を提供し、その提供した労働の対償として事業主から賃金、給料その他これらに準ずるものの支払を受けている関係をいう。」とされています。したがって、 要約すると被保険者としての資格を取得するためには、労働契約の締結だけでなく就労の実態という事実上の使用関係がなければならないことになります。
上記のことから、F社はYさんについて社会保険の「被保険者資格取得届」の取消し、雇用保険の「雇用保険被保険者資格取得等届」の取消しをすることができます。
2 傷病手当金の会社証明の拒否
社会保険法上、Yさんは被保険者の資格取得自体が認められませんから、F社は傷病手当金の事業主でないことになります。したがって、事業主としての証明をすることはできません。なお、誤って「傷病手当金支給申請書」に事業主としての証明をして、手続きをしてしまった場合は、Yさんから健康保険の保険者に対し、支給前であれば、その取り下げをするよう指示をすること、支給されていた場合は後日返還しなければならないことを伝えるようにしてください。
3 中途採用時の健康状態の把握
労働安全衛生法(以下、安衛法)により、会社は社員の入社時に医師による健康診断が義務付けられています。その項目は、既往歴・業務歴、自覚症状等とされ、その目的は社員の適正配置及び入社後の健康管理に役立てるためとされています。F社は本人が提出した「健康診断書」を形式的に鵜呑みにして採用してしまったことが、この問題の原因ではないのでしょうか。既往歴には、メンタル面での病歴も含まれます。職業安定法は、「職業の目的に必要な範囲内で個人情報を収集することができる」とされています。個人情報保護法は「収集した個人情報をどのように管理するか」についての規制法であって、情報を収集する行為自体を規制しているものではありません(一部の例外があります)。今後、採用時には安衛法を充分理解しているF社の指定する医師に既往歴も含めて、雇入れ時健康診断を行ってもらうことが望ましいと思われます。
4 就業規則等の整備
就業規則には入社時に既往歴にメンタル面を含めた健康診断書の提出の義務付け規程、休職事由にメンタル面での連続した欠勤に対して休職命令ができる旨、個人情報の取扱規程等の確認または整備が必要と考えられます。

税理士からのアドバイス(執筆:辛島 愛二郎)

昨今の人手不足で、会社の採用担当者は人材確保のために苦労しているという話をよく聞きます。
F社もよい人材を採用するために採用時に慎重な対応をしたはずですが、個人情報保護の観点から採用面接時に過去の既往症について本人に詳細に確認するのは難しかったと思慮されます。しかし、採用時に既往症であるうつ病について認識できなかったとしても、入社当日Fさんが入院した時点で速やかに工場側から本社に連絡が入っていれば、今回のような事態は避けられた可能性が高いと思われます。そして、状況によっては、Yさんについて入社取消しが認められずに傷病手当金を支給しなければならない場合もあるかもしれません。それでは以下、Yさんの入社取消が認められた場合と認められなかった場合に分けて会計処理を見てみましょう。

まず、社長の思惑通りYさんの入社取消が認められた場合ですが、Yさんは1日もF社に出勤していませんので、労務の提供がないのであれば賃金は支給しないというノーワーク・ノーペイの原則により、賃金の支払いは発生しないと思われます。

また、Yさんは入社自体を取り消されていますから、健康保険法第3条に規定する社会保険被保険者すなわち、「適用事務所に使用される者」に該当しませんのでF社はYさんについて社会保険料を納める義務はありません。そのため、F社が速やかにYさんの社会保険の取消手続きを行えば、特に会計上の処理は必要となりません。ただし、取消時期によってはYさんの社会保険料を一度納付する必要が出てきますが、その場合は納付時に仮払金等の勘定で処理し、後日過納分について精算がされたときに、仮払金等を消し込む処理を行うことになります。

また、もし、Yさんについて定期代などの実費分を通勤手当等として先に渡している場合は、渡した時に(仮払金)/(現預金)という仕訳をし、Yさんから返金があったときに(現預金)/(仮払金)という仕訳をすればよいことになります。

次に、Yさんの入社取消が認められなかった場合の会計処理についてですが、この場合は、YさんとF社の間に使用関係が認められれば、F社はYさんの社会保険料を負担することとなります。しかし、Yさんに対してF社は賃金を支払っておりませんし、すでに退職届も提出されておりますので、会社はYさんが負担すべき社会保険料を預かることができません。
そのため、会社側は、Yさん負担分の社会保険料を本人に請求した上で、会社負担分とあわせて納付することになります。そして、会社はYさんから社会保険料を預かった時点で(現預金)/(預り金)として処理します。また、もし、Yさんから自己負担分の社会保険料を預かることができない場合には、納付時に一時的に立替金として処理し、Yさんから社会保険料を回収した時点で、(現預金)/(立替金)の処理をします。事務や営業を担当する本社が都内にあり、製造現場である工場は郊外にあるという状況を差し引いても、Yさんの休職及び入院について工場側から本社に連絡が入ったのが採用から1カ月も経ってからという事態はかなり問題があると考えられます。Yさんのケースのような事態が今後起こらないように早急に製造現場と本社の間の連絡体制を見直す必要があると思われます。

社会保険労務士の実務家集団・一般社団法人SRアップ21(理事長 岩城 猪一郎)が行う事業のひとつにSRネットサポートシステムがあります。SRネットは、それぞれの専門家の独立性を尊重しながら、社会保険労務士、弁護士、税理士が協力体制のもと、培った業務ノウハウと経験を駆使して依頼者を強力にサポートする総合コンサルタントグループです。
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SRネット神奈川 会長 望月 昭男  /  本文執筆者 弁護士 紺野 晃男、社会保険労務士 望月 昭男、税理士 辛島 愛二郎



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